興禅寺は、田川に囲まれた広大な寺域であったため、洪水による浸水で、墓地や境内が水没することがしばしばありました。長い歴史の中には、戦国時代の戦火による被害や、江戸時代の大洪水、明治期の戊辰戦争、昭和の太平洋戦争による戦災によって、歴史的建造物・什器類・古文書・書画などが殆ど焼失してしまいました。古い墓石は、現存していますが、浸水により刻文などが判読できないものもあります。 |
正和3年(1314) | 真空妙応禅師 開山。「本朝高僧伝」応典座として明記。「遠野物語」の佛頂禅師の師匠。(宇都宮城主宇都宮貞綱公開基) |
建武2年(1335) | 真空妙応禅師、南峯妙譲(勅諡 佛厳禅師 都賀町龍興寺開山)に住職を譲り、愛媛県大洲西禅寺を開山。 |
観応年代(1351)〜 弘治年代(1557) |
室町幕府の五山十刹制度に於いて諸山位の格式を与えられた住寺十方制をとる。山内子院の長老衆議詳細は慶長2年廃寺の際焚書。 |
明徳5年(1394) | 法堂が新造され七堂が揃う。 |
永正9年(1511) | 中里郷の興禅寺領が宇都宮忠綱より安堵される。 風呂造営の為、塩原湯本の年貢が納められる。 |
天文13年(1545) | 宇都宮尚綱、那須氏に敗れる。この時那須氏の軍勢城市に乱入、興禅寺も焼亡する。 |
天文年間 | 宇都宮広綱、焼亡した殿堂を復興、旧観を取り戻す。 |
永禄3年(1560) | 前妙心 天心智寛禅師(宮城県白石市の傑山寺開山・・白石城主片倉家菩提寺)を獨住とする。 当時山内の塔院の住僧百余員が輪次に住職務める。多くは城主の親戚の故に、驕奢にして禅の修行が疎かになる。時に長老達が相談し関山派(現妙心寺派)より招聘する。 |
天正元年(1573) | 前妙心 湛堂祥激禅師 天心の跡を継ぐ。 |
天正5年(1577) | 前妙心 天心智寛禅師、後に奥州三春郷福聚寺にで示寂(伝) |
天正7年(1579) | 播揚物外和尚(勅諡 播揚大教禅師)湛堂祥激禅師の跡を継ぐ。 伊達政宗、徳川秀忠の帰依をうけ、全国より多くの修行僧が集まる。 大愚宗築、愚堂東寔、明関、鈴木正三等がいる。 |
天正9年(1581) | 前妙心 湛堂祥激禅師示寂 |
慶長2年(1597) | 宇都宮国綱公欠所となり、興禅寺も寺領が没収され廃寺。物外和尚も寺を出る。 |
慶長6年(1601) | 奥平家昌公(徳川家康の孫)を中興開基とし物外和尚、再び住持となり復興(中興)する。 |
元和元年(1615) | 渭川周瀏和尚(物外招播和尚の弟子。勅諡 本寂定光禅師 湯島麟祥院開山)春日の局の帰依をうける。 |
元和7年(1621) | 播揚物外和尚示寂。渭川周瀏和尚、物外和尚の跡を継ぐ。 |
寛永4年(1627) | 一空宗禺和尚(渭川周瀏和尚の弟子)渭川周瀏和尚の跡を継ぐ。 |
寛永9年(1632) | 一空宗禺和尚、病にて退山。常州高乾院にて療養。 |
寛永10年(1633)〜 寛永13年(1636) |
住職不在の為、播揚物外和尚の法嗣の和尚達が輪次に住持する。 高乾院の頂山和尚、石屋祖玖和尚、心宗寺の了堂和尚、崇徳寺畳嶂和尚、紀州龍源寺の盛南和尚が各1年毎務めることを決める。 |
寛永13年(1636) | 紀州龍源寺の盛南和尚が輪次に住持することが出来ず、改めて衆議し崇徳寺畳嶂和尚を当山の特住とする。 |
寛永16年(1639) | 快猷宗規和尚、畳嶂和尚の跡を継ぐ。 |
寛永19年(1642) | 渭川周瀏和尚湯島麟祥院にて示寂。 |
寛永20年(1643) | 一空宗禺和尚、常州高乾院にて示寂。弟子に真岡能仁寺中興虚應玄保和尚。 |
正保4年(1647) | 畳嶂宗良和尚(物外招播和尚の弟子。上州高梨長松寺開山・崇徳寺中興)示寂。弟子に快猷宗規和尚、崇徳寺達傳宗達和尚がいる。 |
寛文10年(1670) | 快猷宗規和尚示寂。弟子関林和尚。 |
元禄9年(1669) | 関林和尚示寂。(関林和尚塩原町妙雲寺由来記す。当時浄瑠璃坂の仇討ちが起きる。弟子南堂和尚、塩原妙雲寺中興睡嚴和尚がいる。 |
享保20年(1735) | 南堂和尚示寂。 |
元文3年(1738) | 天山和尚示寂。 |
宝暦5年(1755) | 龍湛和尚示寂。 |
天明5年(1785) | 利山和尚示寂。(弟子に祖運和尚、竹下同慶寺中興梅芳和尚がいる) |
寛政12年(1800) | 祖運和尚示寂。 |
文化3年(1806) | 龍谷和尚示寂。 |
嘉永元年(1848) | 津梁和尚示寂。 |
明治3年(1870) | 精山和尚示寂。 |
明治43年(1910) | 英山和尚示寂。 |
大正4年(1915) | 蘭洲和尚示寂。 |
昭和18年(1943) | 英道和尚示寂。(黒羽雲嚴寺五十六代) |
昭和42年(1967) | 英宗雄和尚示寂。 明治27年生まれ 雅号「暮人」 大正9年若山牧水に師事。 歌集「菩提樹の若葉」「空華」 下野短歌創設。 多くの文人と交遊する。 同慶寺住職のかたわら、下野中学校(現作新学園)教諭を務める。 英道和尚隠居にともない興禅寺住職となる。 昭和13年には、従軍僧として中支に駐在。 戦後は、宇都宮市公安委員、保護司、宇都宮刑務所教誨師、地裁調停委員などを兼務する。 昭和27年 栃木県文化功労者 昭和38年 藍綬褒章を受章。 |
平成5年 | 靖洲和尚隠居。 戦災により壊滅に至った本堂、山門をはじめ寺域を整備し、景観を整え今日の興禅寺の基を築く。 |
平成15年5月 | 道宗和尚 書院新築並びに庭園整備 |