本朝高僧伝「興禅寺物語」(著者 徳田浩淳)
「下野社寺」(著者 島遼伍)
の中に著されているように、興禅寺との関わりの中で、
魅力ある方々や、事柄を少しだけここでご紹介します。
開山 真空妙応禅師


真空妙応禅師は、建治3年(1277)頃、奥州岩代国(現在の福島県岩代町)の生まれ。年少の頃は、大変やんちゃな少年であったたという。山林で坐禅をしている東山雲厳寺の高峰、勅諡 佛国国師(高峰顕日)と出会い、師と仰いでそのまま雲厳寺に行った。骨身を惜しまずまめまめしく働き、1年目に「妙応」の法名が与えられ、ついで「真空」の道名が許された。
延慶元年(1308)頃、雲厳寺の法嗣となり、住職となるが、雲厳寺を出て、宇都宮へ行き、小さな地蔵堂に身を寄せ托鉢と読経と坐禅の生活をしていた。
やがて地域の住民に認められるところとなり、城主宇都宮貞綱の耳にも達し、城主自ら時折地蔵堂を訪れるようになった。
奥州の豪商聖阿弥も妙応の徳に感化され、寺院建立を勧め資金を援助し、宇都宮貞綱公は寺領を寄進し、寺院を建立することになった。
寺名は、宇都宮で最初の禅寺であることから、「興禅寺」となり、山号は、「神護山」、寺域を「河北禅林」と定められました。
正和3年(1314)開眼落慶法要は、勅諡 佛国国師(高峰顕日)を招いて盛大におこなわれた。
建武2年(1335)南峰妙譲和尚に住職を譲り、四国の大州へ向かった。
大州へは貞綱の弟泰宗、その子貞泰に招かれて行き、地域の人々にも親しまれ、西禅寺を創建し、開山となった。
観応2年、76歳でその生涯を閉じ、後年興禅寺に供養塔が建立された。
宇都宮貞綱公


第八代宇都宮城主。鎌倉幕府の引付衆。
弘安4年(1281)、北条時宗の命により、弘安の役のため九州博多に出陣。
父景綱と共に「宇都宮家弘安式条」と称される一族の定書を制定し、子孫が堅くそれを守り、結束と権威を示すものとなった。
幕府の醜い権力争いに、貞綱の心は痛み、和歌をたしなみ、次第に仏教に心の安住を求めるようになっていった。実母の13回忌には、東勝寺に鉄塔婆を造立した。そのころから上河原の地蔵堂を訪れるようになっていった。
真空妙応禅師による興禅寺創建の際は、寺領を寄進し、執権北条高時にその旨報告の際、高時は扁額「河北禅林」を墨書された。
宇都宮公綱公


第八代城主宇都宮貞綱の次男。幼少より勝気で豪胆な性格であったが、父母が熱心に仏教を信仰していたので、その感化を受け、ものの哀れを心の底にとどめていた。
初陣から手柄をたて、家臣からも慕われ、公綱の馬前で生命を捨てることを本望と言われていた。楠正成とも対戦し、正成も公綱の武勇を認めるところとなる。
後年、領土や権力への野望もなかったことから、仏門に入り、名を「理蓮」と称し、興禅寺境内に「正眼庵」を設け、禅三昧のひとときを過ごした。
「坂東一の弓取り」と言われた公綱は、正平11年(1356)に亡くなり、興禅寺に墓所がある。潔い生き様は現代でも、人気のある戦国武将の一人に数えられる。
賢江祥啓


鎌倉建長寺の書記役を勤めていたので、「啓書記」と呼ばれ、関東における水墨画の創始者といyことができる。現代においてもその芸術性は高く評価されている。
第十三城主宇都宮持綱の家臣丸良綱武の子で、嘉吉元年(1441)11歳で興禅寺に入る。
1年程で得度し、「祥啓」という法名を授けられた。学問を好む少年であったが、絵心に目覚めはじめる。興禅寺にも画材となるものはあったが、彩色を好まず、専ら墨絵に精進していた。御本尊・釈迦牟尼仏坐像を模写するなど、少ない時間の中で、墨絵を描くことに生きがいを感じはじめ、城下でも評判になっていた。
長録元年(1457)、宇都宮を離れ鎌倉の建長寺に入る。
文明10年(1478)京都南禅寺に身を寄せ、芸阿弥に師事する。
再び鎌倉へ戻り、祥啓を主軸として鎌倉には水墨画文化の花が咲き誇った。
奥平家昌・忠昌


興禅寺の中興開基、奥平大膳太夫家昌は、家康の外孫で関が原の後、宇都宮城主に入った。
長男奥平美作守忠昌は、宇都宮城の第二十九代の城主。
忠昌の死後、二七日忌の口論、刃傷沙汰に及び、家老の奥平内蔵允が切腹し、相手の奥平隼人も改易となり、有名な「浄瑠璃坂の仇討ち」が起こる。